私の机の引き出しには、もう何年も使っていない、古びたキーホルダーが一つだけ大切にしまってある。それは、十年前に亡くなった父が、生前ずっと愛用していたものだ。本体は分厚い真鍮のプレートで、角は丸く削れ、表面には無数の細かい傷が刻まれている。そこには、父が若い頃に乗っていたバイクのメーカーのロゴが、かろうじて読み取れる程度に薄れて残っている。父は決して物へのこだわりを語るような人ではなかったが、このキーホルダーだけは、いつもズボンのベルトループからぶら下げていた。家の鍵、車の鍵、そして実家の蔵の鍵。いくつかの鍵が束ねられ、歩くたびにカチャカチャと控えめな音を立てていた。その音は、私にとって父の存在そのものを知らせる、幼い頃からの慣れ親しんだ響きだった。私が子供の頃、そのキーホルダーを触らせてもらうのが好きだった。ひんやりとして、ずしりと重い。表面の傷の一つ一つを指でなぞりながら、これはいつ付いた傷なのだろうと想像を膨らませた。父は多くを語らなかったが、このキーホルダーは、父が歩んできた人生の道のりを、無言のうちに物語っているように思えた。父が亡くなり、遺品を整理していた時、母が「これは、あなたが持っていなさい」と言って、私にこのキーホルダーを手渡してくれた。父が毎日触れ、その体温が染みついているかのような金属の塊を握りしめた時、私は初めて、父の不在を本当の意味で実感し、涙が止まらなかった。今、私が使っている鍵には、もっと軽くて便利なキーホルダーが付いている。しかし、時々、無性にこの父のキーホルダーに触れたくなる時がある。引き出しから取り出し、その重さと傷の感触を手のひらで確かめる。すると、不器用だけど、いつも私たちのことを見守ってくれていた父の大きな背中が、すぐそこにあるような気がするのだ。キーホルダーは、単に鍵を束ねるための道具ではない。それは、持ち主の時間と記憶、そして愛情を静かに宿す、小さなタイムカプセルのような存在なのかもしれない。